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掲載日:2026年10月16日

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令和8年度ケアラー月間イベント「あの人の、話してこなかった日常展。<きっと誰のそばにもある、30人のケアラーの話>」

「あの人の、話してこなかった日常展。」画像

開催概要

開催日時

令和8年11月8日(日曜日)

パネル展:10時00分~16時30分(入退場自由)

トークセッション:15時00分~16時00分

会場

M’s SQUARE(別ウィンドウで開きます)

(埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-10-8 武蔵野銀行本店ビル2階)

※JR大宮駅西口よりペデストリアンデッキ徒歩5分

参加費

無料

事前申込

パネル展:不要

トークセッション:令和8年11月1日(日曜日)までに申込フォームからお申し込みください。

https://forms.gle/VPu3oQY7jA9jDU1H8

令和8年度ケアラーイベント申込フォーム

トークセッション登壇者

金子 萌 氏(株式会社想ひ人/ケア経験者)

小林 誠 氏(さいたま市浦和区北部圏域地域包括支援センターかさい医院)

ファシリテーター 髙垣内 文也(株式会社ENCHORD)

トークセッション内容

ケア経験者や支援者の立場である登壇者が「ケアラーの声」を紹介しながら、それぞれの立場からトークを行います。現在ケアをされている方にも、これからケアラーになる可能性がある方にもお聞きいただける内容です。

アーカイブ配信

※トークセッションの様子は後日、埼玉県公式YouTubeチャンネル(サイタマどうが)にてアーカイブ配信を予定しています。

配信開始予定:令和8年11月20日(金曜日)

30人のケアラーの声

ゾーン1 どうしていいかわからなかった話。

職場でのお昼休みだけが、自分の時間でした。

30代・女性・会社員(さいたま市)

働きながらの介護で、自分の時間がなかった。1日の中で、お昼休みだけが自分の時間だった。年末年始のショートステイだけが楽しみだった。

だんだん壊れていく夫を、隣で見ているのが、つらい。

50代・女性・パート事務(白岡市)

入院して初めてわかった病。告知された瞬間、「晴天の霹靂とはこういう事か!」と涙が止まらなかった。あれから一年、どんどん記憶が曖昧になる夫。進行止めだという気休めの薬。話を聞いてくれない主治医。どこに怒りをぶつけて良いのか分からず、色んな場所へ足を運んだ。納得のいく答えはまだない! タイムマシーンがあるのなら、10年前に戻りたい。

毎日、当直をしているみたい。代わってほしいけど、代われる人もいない。

50代・女性・パート時短(鴻巣市)

自分だけでは起き上がれず、トイレをするにも、半分以上漏れるのに自分でしようとするから、介助が夜中ずっとある。物音で起きるから、ちゃんと寝た気がしない。一人っ子だから、自分しかいない。亡くなるまでの永遠。亡くなってほしいわけじゃない。だから、しんどい。毎日当直をしているようで、しんどい。

看護実習をしながら、夜は祖父母の介護。死んでしまうかと思った。

20代・女性・看護学生(八潮市)

大学生です。祖父母と3人暮らし、祖母は認知症。祖父が誤嚥性肺炎と老衰で次第に寝たきりになった。入院を拒否したので家で看ることになり、点滴も吸引も酸素投与も一人でこなした。速攻でケアマネを頼んで、訪問診療、訪看、訪問薬局、いろいろ入れてもらった。なんとか助かった。ただ、介護ベッドの搬入や訪問看護・診療の契約には、自宅に私がいることが条件で、休まなければならなかった。大学の先生も助けてくれることはなかった。大変すぎて、ご飯を食べる時間も忘れて、介護と実習記録に追われる毎日。看護実習をしながら夜も介護していた時は、死んでしまうかと思った。主に3ヶ月だったけど、もっと長くケアしている人のことを考えると、本当に大変だなと思う。正直、「もう早く迎えに来てくれ」と願ってしまったこともある。それは本当に祖父に申し訳なかったと思っている。その気持ちが生まれた自分を責めた。でも、頑張ったと思う。最期も、自分の悲しみより、家族みんなが近くにいられるように調整したり、手を握れるようにしたり、声をかけるよう促したり、写真を撮ったり……自分の気持ちなんか置き去りだった。祖父には介護の初期に「もう終わりたい」と言われて、長く生きることより楽にすることを陰で約束したりもした。介護はこれだけいきなり来るのだと痛感した。介護をもっといろんな人が体験しておくと良い。そんな場所があればいいな。訪問でケア方法を一緒に考え、練習してくれるサービスがあれば助かるかもしれない。特に、長期療養の人は。

頼れるのは介護サービスだけ。月1回のケアマネさんとの打合せが、楽しみだった。

30代・女性・会社員(さいたま市)

兄弟は子育てと仕事で忙しく、全く頼りにならなかった。頼れるのは介護保険サービスだけだった。月1回のケアマネさんとの打合せで、思いっきりケアのことを話すことは、癒しの時間だった。

ゾーン2 ここにいると言いたかった話。

90歳の母を介護中。今月、介護離職します。

60代以上・女性・アルバイト(秩父市)

90歳の母を自宅で介護しています。認知症あり、車イス使用です。定年退職後、週8時間アルバイトをしながらの介護ですが、このところ疲れてしまい、今月で介護離職することにしました。ずっとやりがいのある仕事をしていたので、とてもさびしいです。体が2つあったらいいのにと思います。介護を手伝ってくれる家族がいないので、この選択しかないと思います。介護サービスで関わる方たちが、母にも私にもとてもよくしてくださるので、本当にありがたいです。ただ、家族が同居しているとのことから、訪問介護の生活援助を利用できないことがつらかったです。風邪を引いて38.5度の熱があっても、食事の支度や排泄、着替えなど休むことができないのです。家族がSOSを出した時、緊急に支援してもらえる制度があるといいと思います。母が体調を崩し入院した際、「このタイミングで施設に入れた方がいい」とアドバイスしてくれた方もいましたが、その選択をしなくてよかったと思います。まだまだ母にはできることがあるので、自宅で穏やかに過ごして欲しいと思います。訪問リハビリを頑張る母を見ていると、いくつになっても機能回復できると実感します。人間の持っている力はすごい。私が後悔することがないよう、母の介護をまだ続けたいと思います。

資格をとっても使えない。介護のために、25年間、社会から取り残されてきた。

50代・女性・専業主婦(さいたま市)

独身の頃から、医療系学部出身ということで、祖父や祖母の介護の手伝いをしていた。元々、結婚しても仕事を続けるつもりだった。子どもができるまでは、仕事と介護の手伝いにやりがいを感じていた。結婚して、祖父を看取り、妊娠して、1人目の子どもを出産。育児休暇中に引越し、夫から「仕事を続けるなら離婚」と言われ、辞めなければならなかった。そこから、祖母、義父母、父母の介護と育児に明け暮れて、仕事に戻れず25年。社会から完全に取り残されている感、強すぎる。今は母のリウマチが発症し、すべての病院周りを、兄弟が4人いるのに私が押し付けられている状態。そんな私に、旦那が「仕事復帰すれば」と言ってきた。そんなの、急に無理。せっかく取得した資格を使えず、社会復帰できないのが辛く、介護している母に八つ当たりしてしまう。

パートだと、時短しても何の保証もない。それでも、介護は待ってくれない。

50代・女性・パート(鴻巣市)

パートを、デイサービスの送り出しと迎えの時間に合わせて短くしている。正職員は介護で時短できるが、パートは給与も減ってしまい、何の保証もなく、つらい。正社員じゃないと社会保障が得られないが、誰も助けてくれない。どうにもならず、つらい。金銭的、身体的な補助をしてほしい。

介護される人へのサービスはある。でも、介護する人には、何の助けもなかった。

無職(さいたま市)

3年間弱、独りで認知症の父の介護をしました。介護される方のサービスは色々あり助かりますが、介護する方には、正直何の助けもありませんでした。市報の介護サロンも、行くだけ損した感じです。「こんな時はどうしたらいいんだろう」という時も、介護の有資格者の方は皆さん口を揃えて「人によって違いますから」。正直、実際に介護をして看取ってくれた無資格者の方のほうが、ずっと助けになりました。「頑張りすぎないで」と皆さん簡単に言われますが、頑張らないと家事と介護はできませんでした。介護無職で必死でした。自分がストレスからくる病気になり、介護が終わった今でも、私は薬漬けの日々です。これからどうなるのか、不安しかありません。

先天性で全介助の子。子どもの年齢が、そのまま私のケアラー年数です。

50代・女性・専業主婦(さいたま市)

先天性で全介助の障害のある子供がいます。普通の子供と違って、成長とともに自分でできるようになることがないので、子供の年齢=ケアラー年数となる。障害児の数は高齢者の人数よりもはるかに少ないので、助けてくれる施設も、助けてくれる人といった支援も少ない。障害児者は、存在自体が「ないもの」とされているように感じている。親はケアするために仕事を辞め、世帯収入も下がっているのでお金の不安も大きいし、親自身の体調不良や病気、親の親(祖父母)の介護も重なり、体を休める時間がない。障害のある子供は現在16歳。18歳の壁が近づいている。生まれた時から現在に至るまでお世話になってきた小児病院や特別支援学校の卒業を前に、医療も生活も全て、親が大人への切り替えをしなければならず、非常に苦しい。ケアの終わりは子供との別れを意味するので、いずれ来るその日ができるだけ遠くにあって欲しいと願いながら、厳しい日常を過ごしている。

「その身にならないと、誰も関心がない」。だから、知ってほしい。

40代・女性・医療、介護関係(新座市)

自身が医療・介護に携わっている身なので、色々なサービスにすぐつながった。でも、一般の人にはなかなか難しいかもしれないと思った。義父が難病になり、症状が悪化して、介護保険申請、ケアマネジャー選定、サービス開始になった。自分はよく知っているので自分で動けたが、一般の人は難しいと思う。包括の方の「その身にならないと、誰も関心がないんですよ」という言葉が響いた。誰もが介護に興味を持つのは難しいが、「介護が必要かも?」くらいのときに、相談できる窓口、話せる場所があること、情報がある、ということが世間に知れ渡るといいなと思う。誰もが我が身として関心を持ってほしい。

家族も大事。だけどそれ以上に、自分の人生が大事。

50代・男性・フリーランス(さいたま市)

自分が30代後半、親が67歳で倒れ、施設が嫌で在宅に戻しました。が、自分の人生がなくなりました。自分の温度が薄くなりました。7年半介護して、終わってから同じくらいの時間を使ってしまった。それでもまだ完全には自分自身しっくりきていないのに、預貯金も尽き、命すら危うさを感じてしまったり。ケアラーのケア、アフターケア、「大事なのは自分自身」という心得を体現していけるような支援の仕組みが、社会側に本当にあってもいいはず。当事者経験のある人を大事に生かす仕組み、現場の当事者をちゃんと見ること。それが必要だと感じています。

ゾーン3 早く気づけたらよかった話。

「おまえ、誰だ?なんで、ここにいる」。私はその日、実父にとっての他人になった。

40代・女性・看護師(朝霞市)

父は16年前、脳梗塞を患った。四肢に障害はない。ただ、高次機能障害による短期記憶障害から始まり、年齢を重ねるごとに間近な記憶から失っていった。友達を忘れ、自分の子供を忘れ、大人であることを忘れた。今の父は小学生くらいか。家の中で「家に帰りたい」と言う。目の前の妻に「お母さんはどこいった?」と聞く。昼夜問わずの徘徊。一緒に暮らしている母は限界だった。施設を勧めても、世間体を気にする母は「家で見る」の一点張り。母と台所で話している時、父が入ってきた。「おまえ、誰だ?なんで、ここにいる」。父の血走った目、老体とは思えない力強さで手首を掴まれ、拳を振り上げられた。父にとって私は知らない人。私が恐怖を感じたように、父もまた私に恐怖を感じて排除しようとした。世間体とかどうでもいいから、もっと早くに施設入所していれば、穏やかに過ごせたかもしれない。実の親に忘れられ、憎悪の目を向けられるのは、認知症と知っていても、体感するのでは精神的につらい体験でした。

介護が始まる前の自分に言いたい。「もっと家事を手伝っておけばよかった」。

20代・女性・公務員(深谷市)

母が倒れる前、「料理やってみる?」って声をかけてくれたのに、面倒だからという理由でやらずにいた。でも、身体が不自由になってしまい、前みたいに手取り足取り教えてくれる母は戻ってこない。面倒と思わず、あの時教わっていたら…私はもっと美味しいご飯を提供できたのではないかと、後悔している。

みんな最初は介護初心者。それは、介護を受ける人も同じ。

20代・女性・事務職(上尾市)

突然、母がパーキンソン病になり、介助が必要になった。最初は思い通りに介助できず、簡単なこともうまくいかなくてイライラすることが多かった。でも、それは当人も同じで、少し前までできていたことがうまくできなくてイライラしたり、不安になったり。なかなか心に余裕は持てないけれど、今までと同じ日常生活を無理に送ろうとせず、できることだけやればよかったと、今なら思う。

「両立できる」と思っていた。でも、できませんでした。

50代・女性・重度訪問介護事業所経営(越谷市)

主人とは大阪と埼玉での遠距離恋愛。子育ても一段落し、大阪から埼玉に来ました。リンパセラピストとして個人サロンを経営し、講師としても活躍したいと0からスタート。生徒さんも増え、お客様も付き、楽しく過ごしていた矢先、相手がニューロパチーと診断を受けた。その後ALSと診断され、結婚し、共に歩もうと決めた。やっと知らない土地でお客様も付き、うまくいきだした矢先の介護。両立?できません。できると思ってた。自営業でも難しい。「基本的に家族が見れる時間があるだろう」という国の考えや、介護保険・福祉のはざま、本来決まりごとがないのに「今までそうだから」という考えのもとで動くケアマネジャーや事業所も多くいる。あまり言いすぎるとモンスターペアレント扱いされる。介護すること、それは自分を失うこと。その中でもなんとか自分の時間を作る工夫をしなければ、介護する側が倒れてしまう。だからこそ、自分や介護する人がどう生きたいか、しっかり軸を持つこと。【介護】ということを安易に考えないほうが良いよ。いくら大切な人でも守りきれないことがあるよ。知らないこともいっぱいあるし、誰も教えてはくれないよ。けど、貴方は色々な事を経験してきたからその経験は役に立つ。役所も医師もだれも何も教えてくれない。調べる力、人との関わり、言いたいことを言える人は必ずいい方向に向かう。言いたいことを我慢しては貴方も介護する大切な人も駄目にしてしまうからね。自分たちの考えを曲げないでね。そうすれば必ず自分達の考えに賛同してくれる人たちに会えるから。それでも自分の時間、尊厳は奪われてしまう。その覚悟を持っててね。

ゾーン4 当たり前だと思っていた話。

学校に通いながらの家族のケアは、思ってた倍しんどい。もっとヤングケアラーの存在を知ってほしい。

10代・女性・高校生(さいたま市)

学校と家の事をやらなきゃいけなくなって、最初は家族もいて一緒にやってたけど、みんな仕事や予定があり、私が中心的になるようになってから本当に大変でした。でも、誰かに話したら本当に心は楽になったし、自分と似たような人も少なくは無いんだなって、安心というか、分かり合えたような気がしました。世の中にもっと、ヤングケアラーの存在を知ってほしいです。

親は労われても、ヤングケアラーの私は"陰の介護者"だった。

20代・会社員(さいたま市)

祖父母の介護をしていた時、両親は福祉支援者から労りの声掛けをもらえていたが、ヤングケアラーである私は陰の介護者で、同じように優しい眼差しを向けてくれることはなかった。それは支援者さんが冷たかったのではなく、当時は孫の私まで家族を丸ごと見ていく支援がなかったのだと思う。私自身も必要としていなかったが、大人になって痛感することは、あの時のケアやサポートが違っていれば、もっと生きやすかったのかもしれないということ。学校帰りはいつも祖父母宅へ向かい、身の回りのお世話や薬の管理、心のサポート、通院付き添い、徘徊時の見守り、などなどしてきた。自宅に地域支援者が来るたびに、大人が頑張りを認めてもらえているのを見て羨ましさが少しはあったのかもしれない。毎日「消えたい」と思いながら、両親や祖父母の情緒的サポートばかりしていたからか、自分の感情が今でもわからずに辛い。ただ、今振り返って思うのは、人より苦労したことで、些細なことに幸せを感じることができる感性は育ったということ。経験は何物にも変え難い、自分の財産にもなっていると思う。制度も大事だが、やはり心のサポートが欲しかったなとは強く感じる。

家族を支えるのが当たり前だと思っていた。それが自己犠牲だと、大人になって気づいた。

30代・女性・医療(川越市)

16歳の頃、母が統合失調症で、医療保護入院を10年していました。親を、妹を精神的に支えるのが当たり前だと思っていた。それが普通だと思い、何の違和感も感じなかった。後に、それが自己犠牲的な考えだと、大人になって分かった。家族のことは家族内で消化するのが当たり前。田舎出身ということもあり、母が入院した際も外で発狂していたので近所で知れ渡り、余計にひた隠しに。統合失調症が昔は「精神分裂病」と呼ばれていたこともあり、差別意識が色濃く残っていたのではないか。もう母は亡くなって3年が経ち、色々と心配事がなくなり、自身は1歳の子がおり、充実した日々を送っています。

「あなたは頑張ってる、偉いよ」。その一言で、自分の存在が認められた気がした。

20代・女性・介護士(所沢市)

1歳4ヶ月差の妹が「滑脳症」で生まれ、そのさらに下に5歳差、9歳差の弟妹がいた。母が妹から離れられなかった代わりに、私が弟妹の送り迎えや卒業式などに参加していた。また、妹のために介護や吸引指導も受けていた。優しい人になりたかったから。親から、皆から認められたかったから。気がついたら、人のために動かなければいけない、自分より辛い人がいるから配慮しないといけない、となっていた。自分の辛さを出すことが悪に感じるようになってしまった。それが当たり前の環境だったが、友人や知り合いから「大変だったね、あなたは頑張ってるし偉いよ」と言われて、自分の存在が認められた気がした。介護士になって、技術も認められた。

ゾーン5 頼っていいと知った話。

「大丈夫?色々教えてね」。その一言で、私はケアラーだと胸を張れた。

20代・女性・会社員(ふじみ野市)

私は発達障害を持つ弟が居る。当たり前でごく普通だと思っていた日々なのに、どこか苦しい。「障害があって大変ね」「家族だからあなたがしっかりしないと」…周囲がかけるごく当たり前の言葉がしんどかった。助けを求めたら、無下にされたこともあった。そういったことにモヤモヤすることも、考えることすらもいけないのではないかと苦しんだ。ある日、何気なくやっている行動や考え方に、ケアの要素が含まれていることを知った。その様子を知った、私と家族のことをよく分かっている親友がかけてくれた言葉が「大丈夫?色々教えてね」だ。たった一言なのに、心が軽くなった。私はケアラーだと胸を張れるようになった。身近にいてもどう声を掛ければいいか分からない人も多いと聞いた。そんな時にこの言葉をかけてもらえるとありがたい。そして私も、その言葉で他人を救えるようになりたい。

「自分が助けないと」と思いすぎることが、自分も家族も苦しめていた。

30代・女性・経営(東京都目黒区)

母子家庭で育つ中で、私が学生の頃に母が精神疾患を発症してしまいました。同居する母のケアをしながら自分が働くことを頑張っている中で、精神的にも体力的にもギリギリの生活が続き、何か一つでもうまくいかなかったら全て崩れてしまう。そんな綱渡りの日々となり、自分も鬱のようになってしまいました。このままでは共倒れになると限界を感じた時、保健師さんへ相談したところ、「別々に暮らすことで、お母さんが公的な福祉を受けることがもっとできるようになる。あなたも、あなたの人生を歩んでいい」と話してくれて、別居しながら適度な距離でサポートできるようになっていきました。自分の精神や生活も余裕が出てきて、今の方が適切な距離で母に優しくできているように思えます。頑張ってきたことが間違っていたとは思わないけれど、自分だけでなんとかしなくてよかったんだ、と今なら思えます。

「自分がしっかりしなきゃ」が、いちばん自分を追い込んでいた。

40代・女性・フリーランス(川越市)

父の介護をしているのは同居している母。とにかく母を支えないと。知的障害の姉の世話もしている母。どちらかを施設にお世話になろうと説得するも拒否。頑張りすぎる母を支えながら、仕事と、家事に協力的ではない夫との間で、何に手を抜いていいのかも分からず、父の状況はよくならず。職場の方に「何かできる事があったら言ってね」と言っていただいても、自分自身がどうしたらいいか分からなくて、何を協力・理解してもらえたらいいのか分からなくて、仕事を辞めました。誤嚥性肺炎で父が入院した病院で、「施設、考えていませんか?」と言っていただいて、そういう状況なんだとホッとしました。母も納得してくれました。背中をそっと押してくださった事、感謝してもしきれません。

介護していても、自分の時間を持っていい。

50代・女性・会社員(熊谷市)

母、そして父と2人の世話で疲弊していました。きょうだいなど近隣にいる身近な人ほど、私自身が息抜きをすることに理解がありませんでした。「放ったらかして遊んでいる」と。でも、ケアマネさんや施設の方が気にかけてくれて、「プロは被介護者のためだけにいるのではなく、介護者のためにもいる。だから気にせずリフレッシュしてきて!」と言ってくれました。ありがたくて涙が出ました。おかげで、自分自身が病まずにいられます。自由な自分の時間を持つことに、罪悪感を持たない。

義母と夫のダブルケア。救ってくれたのは、ご近所さんの存在でした。

40代・女性・団体職員(春日部市)

義母と夫を介護するダブルケア状態は、4年ほど続いた。フルタイムの仕事を続けることができたのは、職場の理解もあったから。また、義母の趣味活動の仲間(ご近所さん)も、義母を訪問し話し相手になってくれ、とてもありがたかった。介護保険制度も助かったが、調整など家族の負担も大きく、ご近所さんというインフォーマルな支援はとてもありがたかった。大変すぎてその4年間の記憶はほとんどないが、仕事が介護から離れる時間となり、介護ストレスが緩和される時間となっていたと感じる。

しんどくなったら、離れていい。それは逃げじゃない。

40代・女性・無職(狭山市)

(10年ほど前の話ですみません)世話になったんだから親の面倒は見て当たり前、という中で介護をしてきた。ストレスがたまっても、身体が痛くなっても、やらなきゃならないんだろうと思っていた。そんな中、限界が来て分かりやすく体調不良になった時、ケアマネさんが「もう頑張らなくていい、自分を大切にしなさい」と。「みんなプロなんだから、もっとこちら側を信用してくれ、使えるものは何でも使ってくれ」と言ってくれた。一番近くで介護する側に余裕が無いと、ろくなことは起きない。まずは自分が元気でいないと。自分の体が一番大切。しんどくなったらそこを離れなさい。それは逃げじゃない。必ず力になってくれる人がいるから頼りなさい。

ゾーン6 自分の人生も大事だと気づいた話。

介護をしながら、自分の人生も大切に生きていい。

50代・女性・障害者福祉(北本市)

娘が超低出生体重児で生まれ、重度の障害があると分かった。自分がこんな風に産んでしまったという後悔と申し訳なさ、夫から責められ、誰にも頼れずとても辛かった。今後の人生すべてこの子のために尽くさなければと感じていた。そこに父が癌になり、母も癌になり、自分一人ではどうすることも出来なくなった。自分も病気になり入院することになった。その時に親戚に助けてもらったり、恩師に悩みを聞いてもらった時に、「どんな時もお前の人生も楽しんで、大切にして欲しい。お前の両親も悲しくなると思うんだよ」と言われた。少し肩の力が抜けて、気持ちが楽になった。介護をしながら、自分の人生も大切に生きることが大切。なんでも我慢することはない。

離れて休む時間をつくることも、ケアを続ける力になる。

公務員(白岡市)

自分が思春期の頃に、きょうだいが精神疾患、親も身体の病気で家事がままならない状況で育ちました。先生に「〇〇ちゃんを守ってあげてね」と言われたことがあり、支えている側の私は誰かに頼ることはできないんだなと感じたこともありました。実家からかなり離れた場所にある「ここで働き続けたい」という会社にいましたが、何かあった時にすぐ実家に帰れないため、数年で断念してしまいました。家族の状態が悪い時は仕事を何度も休んだり早退してばかりで、仕事以外の時間は常に家族のことを考えないといけない状況は、身も心も疲労が溜まりました。たまに離れて、ケアラー自身が身体も心も休める時間を作ることが大切だと思っています。自分のキャリアや家庭を守ることも諦めたくないので、実家から近い場所に住み、同居はせず自分の時間も作ったことで、心身共に休む時間を作ることができています。ケアラー同士で吐き出し合える場や、家族が適切な治療・公的な援助を受けられる相談先があるといいと思います。

大変な時もあるけれど、一緒にいられることが、いちばん幸せ。

50代・女性・介護士(越谷市)

子供に生まれつき障害があり、私の価値観は180度変わった。福祉の勉強をしたくて、働き、介護福祉士を取得した。子が18歳になり、進路がなかなか決まらず大変だった。特別支援学校を卒業し、環境変化に弱い子のため、短時間から慣らすことになり、私は仕事を辞めた。同時期に母が高齢で物忘れがひどくなり、さらに圧迫骨折の影響で歩くのが大変になった。子供と親のダブル介護の毎日。卒業して2年目、隙間時間に単発の介護の仕事ができるくらい時間ができた。働くと気持ちが明るくなる。家族以外の方から感謝される喜び、社会につながった感覚は、働かなければ味わえない気持ちだった。家族のために犠牲になったとは思っていない。仕事よりも大切な人達を守りたかった。一緒にいたかった。大変な時もあるが、一緒にいられることが何より幸せだと感じる。今は、派遣の仕事が決まりそうだ。私の経験を活かして社会貢献していきたいと思う。孤独な辛い気持ちは、人一倍わかっているから。

あの日の私へ。10年後、子どもたちとあの辛さを笑い飛ばせる日々が来たよ。

50代・女性・公務員(鴻巣市)

私はフルタイムの仕事を持ち、夫は単身赴任。夫は義両親が年を取ってからの子どもだったので、子育てをしている頃にはもう義母が認知症を発症。義父はほとんど義母を介護せず、施設に入所するまで、食事や排せつの世話は帰宅してからの私の仕事だった。義母が亡くなる頃、今度は義父が病気で入退院と施設入所を繰り返すように。介護施設とうまくいかず、何度も自宅に戻される日々。介護施設の人さえも私たちの介護に関心を持ってくれないどころか、攻撃的な言葉を投げつけられて、泣きながら義父を家に連れ帰ったこともあった。どこにも味方なんかいないと思っていたあの頃の私へ。10年後、娘たちはあの日々を胸に、まっすぐに育ってくれました。私の誇りです。あの日々のことを一緒に笑い飛ばしてくれる、そんな平和な今日が訪れているよ。がんばったね、私。

(参考)ケアラー月間について

埼玉県では、11月をケアラー月間として、ケアラーの方が孤立しない社会の実現を目指して集中的な広報啓発を行っています。

「誰かを支えるあなたも支える。」をテーマに様々な取組を実施します。

誰かを支えるあなたも支える。

お問い合わせ

福祉部 地域包括ケア課  

郵便番号330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 本庁舎1階

ファックス:048-830-4781

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