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掲載日:2022年6月28日

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埼玉の地勢と郷土の移り変わり

埼玉県は関東平野の内部に位置する内陸県で、東経138度42分から139度54分、北緯35度45分から36度17分に位置しています。

東西に約103km、南北に約52km、面積はおよそ3800平方キロメートルで、山地面積がおよそ3分の1、残りの3分の2を平地が占めています。この広さは国土の約100分の1に当たり、全国で39番目の大きさとなっています。

主な河川は、秩父山系を源とする荒川と、“坂東太郎”の異名を持つ利根川です。

気候は、夏は蒸し暑く、冬は乾燥した北西の季節風が吹く日が多いのが特徴です。風水害は比較的少ない一方、全国的に見ても快晴日数が多く、暮らしやすい気候です。


芝川から望むさいたま新都心の写真(さいたま市)

石器時代から奈良時代へ


県名発祥の地、行田市埼玉(さきたま)の埼玉(さきたま)古墳群を上から見た写真

埼玉に人びとが住みつくようになったのは、今から約3万年前といわれています。

所沢市の砂川遺跡や、深谷市の白草遺跡などから発見された石器類から、当時の人々は、狩で捕れた獣や魚などを食糧にしていたことがうかがえます。1万年ほど前になると、煮炊きや貯蔵のできる縄文土器が作られ、食糧事情はさらに豊かになりました。

2,000年ほど前になると、西日本から稲作が伝わり、これとともに、金属器を使う新しい文化も伝えられました。稲作により台地のへりや低地に大きな集落ができ、弥生土器が作られるようになったのもこの頃です。

約1,700年前、関東でも古墳が造られるようになりました。行田市の埼玉(さきたま)の埼玉(さきたま)古墳群は、大型の古墳が9基と壮観。このうちの1つ、稲荷山古墳から出土した国宝の金錯銘(きんさくめい)鉄剣は115の文字が刻まれていて、古代東国の様子を知る貴重な資料となっています。

奈良時代になると、法律や戸籍もでき、農民に一定の広さの土地を分け与え(口分田(くぶんでん))、税として租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)を納めさせていました。深谷市の中宿遺跡の倉庫跡は、当時の正倉と考えられています。

また、秩父から朝廷に銅が献上されたのを記念して、年号を和銅とし、和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が造られました。

鎌倉時代から江戸時代へ


太平記絵巻第十巻(足利尊氏の逝去)の写真

平安時代、都で貴族が華やかな生活を送っていたころ、遠く離れた関東では、各地で武士団が台頭し、世にいう板東八平氏(ばんどうはちへいし)や武蔵七党も、大いに活躍を始めました。

鎌倉時代には、武士が政権を握り、この頃活躍した河越(かわごえ)氏は川越市上戸(うわど)に、畠山(はたけやま)氏は嵐山町菅谷に館を構えていたといわれています。そのほか、武蔵武士の館跡が県内各地に残されています。

南北朝時代に入ると、武蔵武士の多くは北朝方につき、各地で合戦を繰り広げました。県内では、小手指(こてさし)ケ原(所沢市)の合戦場をはじめ、女影(おなかげ)ケ原(日高市)などが合戦場として知られています。

室町時代の後半から戦国時代にかけて、有力な武将たちは城を築いて敵に備えました。鉢形(寄居町)・松山(吉見町)・八幡山(本庄市)・岩槻(さいたま市)・川越・忍(おし)(行田市)などの城を中心に戦いが繰り広げられ、やがて、小田原の後北条氏がこれらの勢力を統一しました。

その後、豊臣秀吉の小田原攻めにともない、鉢形城は前田利家らに包囲され、岩槻城は浅野長吉らに、そして忍城は石田三成らに攻撃され、いずれも開城しました。

江戸時代になると、旗本領や天領(幕府直轄領)が県域に設けられました。また、川越・忍・岩槻の三藩では城下町が整備され、岡部藩では陣屋が置かれました。交通も整えられ、江戸を中心に五街道が設けられ、県内には、中山道と日光道中(奥州道中)が通っていました。さらに、栃本(とちもと)(秩父市)、川俣(かわまた)(羽生市)、栗橋(久喜市)には関所が置かれ、女子の通行や武器の移動に目を光らせていました。

この時代には、三富(さんとめ)新田などの新田開発が盛んに行われ、野火止(のびどめ)用水や見沼代用水などが開かれました。このような江戸時代の開発は、埼玉県を関東地方の代表的な穀倉地帯として発展させたのです。

明治4年に埼玉県がうぶ声


大正2年の県議会の様子

やがて、江戸幕府が崩壊し、県内には従来の藩のほか、いくつかの県が置かれました。そして明治4年、廃藩置県が行われ、県の統廃合を経て、11月14日に『埼玉県』『入間県』が誕生しました。

当時の埼玉県は、荒川以東の地域で、県庁は、交通、庁舎などの点から旧浦和県庁舎が使用されました。一方、荒川以西と熊谷以北の地域は入間県といい、県庁は川越町にありました。明治6年、入間県は、群馬県と合併されて熊谷県となりましたが、明治9年に分離して埼玉県に合併され、ほぼ現在の県の境域が確定しました。

明治9年の戸数は178,862戸、人口は889,492人(『新編埼玉県史』による)。同年末ごろの町村数は、1,934でした。


現在の埼玉県庁の写真

明治21年4月に「市制・町村制」が公布され、翌22年で町村数は明治9年の約5分の1(409町村)に整備。さらに、明治29年に「郡制」が施行されると、県内は、北足立・入間・比企・秩父・児玉・大里・北埼玉・南埼玉・北葛飾の9郡に整理されました。

戦後、「昭和の大合併」によって市町村の合併が進み、昭和35年にはその数95と終戦当時の3分の1になりました。その後「平成の大合併」を経て、現在、市町村数は63になっています(平成30年1月現在)。

埼玉県近現代史年表(PDF:749KB)

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