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掲載日:2024年2月21日

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児玉郡市ではなぜ、養蚕が発達したのか【その5】 -林さんのシルクエッセイ-

幕末・明治期における児玉郡周辺の養蚕の特色

 横浜の開港は、関東周辺の農村と欧米とを結び付けていった。いや厳密には、養蚕農家と欧米の絹需要を結び付けたという方が正しい。特に横浜からほど近く、江戸時代以前から養蚕が行われていた埼玉県や群馬県は、欧米の絹需要を一身に受け、一大産地として発達を遂げていく。

 埼玉県の場合、古い時期における詳細な統計が残されていないため不明な点が多いが、明治初期には、児玉郡をはじめ、秩父郡、大里郡(現在の熊谷市、深谷市等)、比企郡(現在の東松山市、嵐山町等)、入間郡(現在の川越市、日高市等)周辺が主要な産地であった(図1:『埼玉県蚕糸業史』p.52より)。興味深いのは、これら産地が山地や丘陵、台地、扇状地等の水利が非常に悪い地域にある点である。つまり、それまで稲作に不向きだった土地が桑畑として開発され、輸出絹の生産を下支えしていたのである。そのため養蚕は、それまで必ずしも豊かではなかった村々を現金収入源として潤していった。また、明治期に生糸商として活躍する原善三郎(渡瀬村:現神川町出身原善三郎/埼玉県神川町ホームページ (town.kamikawa.saitama.jp))や渋沢喜作(血洗島:現深谷市出身、関連人物/深谷市ホームページ (city.fukaya.saitama.jp))、そして後に富岡製糸場の開設に携わる渋沢栄一(血洗島出身、渋沢栄一の紹介/深谷市ホームページ (city.fukaya.saitama.jp))もこれら養蚕地域で生まれ、養蚕や絹産業と関わりながら日本経済の基礎を作り上げていった。

 このほか、幕末の児玉郡や大里郡周辺の利根川流域では、「蚕種(さんしゅ/さんたね/単にたねとも)」が盛んに生産されていた。蚕種とは、養蚕を行う際の元となる蚕の卵のことである(写真2)。

 幕末から明治時代初め、ヨーロッパでは蚕病である「微粒子病」が大流行していたことは既に触れた。「微粒子病」とは、蚕の幼虫に病原菌が寄生することで幼虫が黒く変色して死んでしまう病気である。この病気の恐ろしい点は、母の蛾から子へ母子感染をするという点である。つまり、微粒子病に感染した蛾の生んだ卵も高い確率でこの病に感染していた。そのため、ヨーロッパの養蚕家たちは、鎖国によって微粒子病が侵入していなかった日本産の蚕種を輸入するようになる。

 この時期、児玉郡周辺の著名な蚕種屋に血洗島の澁澤宗助(現深谷市、「東の家」当主、渋沢栄一の伯父に当たる)や境島村の田島弥平(群馬県伊勢崎市)、宮戸村の金井総平(本庄市:写真3)、黛村の萩原杢衛、金久保村の須賀庄作(以上、上里町)らがおり、彼らのような「蚕種屋(たねや)」によって生産された蚕種が横浜からヨーロッパへ輸出されていた。

写真1 明治初期の繭生産図

明治初期の繭生産図

●のサイズが大きいほどその地域の繭の生産量が大きい。特に児玉郡周辺と深谷周辺で生産量が多いことがわかる。

 

写真2 蚕種

蚕種

蚕種は通常、厚紙に産み付けた状態で流通・販売された。そのため「蚕紙」とも呼ばれる。また、出荷時は薄い和紙で作られたパッケージにくるみ出荷する。

 

写真3 金井総平の蚕種

金井総平の蚕種

明治30年代に金井総平の経営した蚕種屋によって生産された蚕種。表面には社名と蚕の品種名、販売先の名前が書かれ、その上から一面に蚕の卵が貼り付けられた。また裏面には藤田社ラベルと製造した総平の印がつけられた。

 

藤田社のラベル

藤田社のラベルpic

 

金井総平の印

金井総平の印pic

蚕種屋の立地と自然環境

 ところで彼ら蚕種屋は、県内でも特に利根川とその支流域沿いに多く点在していた。これは広大な河川敷が蚕の天敵となる「カイコノウジバエ」が少ない地域とされていたためである。カイコノウジバエとは、桑の葉に卵を産み、その桑を食べた蚕に寄生するハエの仲間である。蚕の体内に入ったハエの卵はふ化後、ウジとなり、宿主となった蚕の体内を食い尽くし、成虫となる前に殺してしまう。このハエによる被害は深刻であり、養蚕においては「蛆害(ようそ)」といった。特に蚕を成虫まで育て交配し卵の生産を行う蚕種屋にとっては、死活問題である。利根川とその支流の河川敷は、夏は洪水、冬は赤城おろしが吹き付ける原野であり、過酷な環境によってカイコノウジバエの生息数が少ないと考えられていた。さらに一帯は、山から運ばれてきた養分の豊富な土砂が堆積しており、エサとなる桑の栽培に適した環境にあった。そのため、安全な桑が豊富に手に入れられるこの地域に蚕種屋が多く営まれるようになったのである。少し後の時代になるが、烏川沿いに所在した賀美村(現在の上里町大字勅使河原、金久保、黛周辺)では、明治20年代には50の蚕種屋が乱立し、大きな生産地を形成していた。いずれにせよ、児玉郡市周辺で生産された蚕種は、日本とヨーロッパの養蚕ひいては世界の絹市場を支えていたのである。


【参考文献】

沢辺満智子『養蚕と蚕神-近代産業に息づく民俗的想像力』慶應義塾大学出版会 p.35-86

本庄市教育委員会編『本庄市の養蚕と製糸』本庄市郷土叢書第1集 2012年

林道義「上里町大字堤における土室育の一例について」『研究紀要』第21号 上里町立郷土資料館 2023年

埼玉県蚕糸協会編『埼玉県蚕糸業史』埼玉県蚕糸業協会 1960年

近藤義雄ほか『群馬県の養蚕』みやま文庫 1983年

謝辞:本稿を執筆するにあたり、本庄市文化財委員/本庄古美術愛好会代表の塩原様より写真蚕紙の提供を受けました。

その6へ続く(クリックすると続きを読むことができます。)


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